先日行われた全日本大学駅伝や、お正月といえば箱根駅伝、実業団ではニューイヤー駅伝、高校生も都大路を目指して各都道府県で駅伝の予選会を行っています。
特に箱根駅伝は1月2日~3日とテレビで大々的に生中継され、これまで幾多の感動シーンなどがありました。
ただ、よくよく考えてみると中継所は「駅」でもないし…。
リレー競技はバトンなのに、なんでタスキなんだろう?
そもそも本来は何キロ走るんだろう?
など、人気スポーツの駅伝でも素朴な疑問がわいてきます。そこで今回は駅伝のルーツについて迫ってみました!
日本で初めての駅伝は京都から東京のロングラン
日本で最初の駅伝は大正6年4月に行われた「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」。
当初は京都から東京に遷都50年である記念として、京都から東京までの東海道、約500km(485km,508km,516kmなど諸説あり)の長距離をマラソンの距離で分割し、それをリレーしながら走破する団体レースとして計画されていました。ちなみに読売新聞が主催しています。
当初は「マラソン・リレー」として紹介され、その後の議論により「駅伝競走」と名称が決定したようです。
というのも、すったもんだしながら検討した結果、当初の「マラソン・リレー」とは異なり、結果的には約500㎞を東海道の宿場町(駅)にちなんだ23区間に分け、そしてその最長区間はマラソンとは程遠い28キロ。そのことから「駅伝競走」となったといわれています。
初めての駅伝はあの番組を彷彿とさせる24時間昼夜問わずのレース
出場は地区予選会を勝ち抜いた選手を選んだ2チーム。東京付近のチームを「関東組」、名古屋付近のチームを「関西組」そして実施されました。
大正6年4月27日14時、京都を出発した2チームはあの番組さながら沿道の声援を受け昼夜を問わず走り続け、翌々日の4月29日11時34分、関東組が約1時間24分の差をつけて勝利しました。
読売新聞の連日の報道により沿道の官民諸氏のボルテージは最高潮。昼夜を問わず応援し、選手が応援の民衆の中を縫うように走ることも多かったそうです。
ところどころで給水所さながら勝手に力水を渡す人、それを容易にたくさん飲んでしまい腹痛を起こす選手。
当時は街灯もなく暗い中、懐中電灯片手に走る選手に襲い掛かる野犬など、様々な面白エピソードもあったようです。
当時ならではのめちゃくちゃなルール
関東組は13区で足を痛め、一歩も歩けなくなるアクシデントがあったようです。
箱根駅伝では棄権もよぎるあのシーンですね。しかしそこは大正。14区の選手が自動車で倒れているところの選手のところまで戻り、残りの13区と14区を走りぬいたそうです。
対する関西組も22区の選手が残り1㎞でダウン。最終23区の選手が戻ってタスキを受け取ったそうです。今のルールでは両チーム失格みたいですね。
奠都駅伝は大成功。ここから駅伝競走が始まっていく
民衆の心をつかみ大成功に終わった奠都駅伝。
機運は高まり翌大正7年には早稲田大学内3チームでの都内一周競争、大正8年には東京高師(現筑波大)で東京・鎌倉間の駅伝競走が行われます。
さらに大正9年にはあの箱根駅伝が早稲田・慶応・明治・東京高師の4チームにて開催、翌年はそれに法政大・中央大・東京農大を加えた7校に。
以降も徐々に増え、今年は100回の記念大会となり、参加チームも23チームとなりました。
全国で実施されている数多くの駅伝競走のルーツ、とりわけ箱根駅伝への系譜となったのが、今回ご紹介した東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走なのです。お正月のトリビアの一つとして、ぜひ皆さんにお話ししてみてはいかがですか?
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